帰りにセブンに寄るぐらいしかないんだけど
寿ハチミツ
第16話
はじめてのアルバイト
 わたしの実家は『高校生になったらアルバイトをしなくてはならない』という決まりがあったので、入学した瞬間から、無職の夫を責め立てるかのような勢いで母からバイト面接を迫られた。

 仕方なくタウンページ(電話帳)を開き、家から通える会社や店に片っ端から電話を掛けたところ、お弁当の卸売をしている会社が面接をしてくれることになった。80歳くらいのおじいちゃん社長がわたしの履歴書を眺めながら、「得意科目はあるのか?」と聞いてきた。まさかバイトの面接でお勉強のことを聞かれるとは思わず、「バカがバレたら(面接に)落ちる」と直感して焦った。
 しかし、わたしは入学直後の学力テストで、奇跡的に国語だけ学年230人中、8位になった。他の教科はすべて200位ぐらいだった事は伏せて、そのことを話した。

 「なんだって!? 優秀じゃないか!」『8位』という微妙な順位にもかかわらず、社長は前のめりになって褒めてくれた。「仕事は無いが、毎週土曜日に来なさい」それは果たしてバイトと呼べるのかと思ったけど、とにかく採用してくれた。

 翌週、言われた通り昼11時に出勤すると、社長はパートのおばちゃんたちにわたしのことを紹介した。「寿さんは○○高校の1年生だ。なんと、国語の成績が学年で一番だそうだよ」なんとなく察しがついていたことではあったけれど、社長は『8位』を『1位』と聞き間違えていた。
 再び事務所へ通されたわたしは、机の前に座らされ、紙と鉛筆を渡された。「国破れて山河あり…」社長はそう呟くと、わたしに漢詩を書かせた。若干、疑問を感じつつ、(初日だから雑談の時間なのかな?)と思っているうちに、夕方17時になっていた。
 満州出身の社長は漢詩に詳しく、その知識をわたしに授けようとしていた。それから毎週、11時〜17時(休憩1時間・昼食付き)時給630円で5時間みっちり漢詩の授業を受けることになった。

 一ヶ月が経つ頃、わたしは漢詩に全く興味がなかったので覚えが悪く、バカな言動(「住民税って何ですか?」等)も目立つようになり、社長も『1位』を疑い始めていた。当初は「勉強が得意な高校生と共通の得意分野で盛り上がろう」としてくれていたのが、段々と「世間知らずな孫の世話焼き」に変化していった。
 ある日、トマトジュースに粉末のクエン酸を山盛り入れた社長特製の健康ドリンクを出された。クエン酸は溶けることなく表面にどっさり乗っかっていたので不安になり、無言で社長を見ると「鼻を摘んで飲むといい」と言われた。絶対に飲まないといけないらしい。強すぎる酸味は“目”にクるらしく、わたしは初めて人前で大泣きした。

 夏になると、古い事務所には従業員用の食材やお弁当などが雑に積まれていたため、ゴキブリがわんさか出るようになった。寒い土地なので、わたしがゴキブリを見たのはそれが初めてだった。ギャーギャー大騒ぎして社長の陰に隠れ、夏の間ずっと、80のじーさんに虫退治をさせた。
 冬になると、バイトが終わる時間は外が真っ暗なので、社長が「危ないから家まで送ろう」と車を出してくれるようになった。その頃、バイトから帰るときはミカンや栗や豆など、毎週2キロ程度のお土産も持たされるようになっていて、完全にじーちゃんの家に遊びに行ってるだけの状態だった。

 そんな平和な日々に突然、事件が起きた。長年、出勤のためだけに慣れた道を運転してきた社長が、80過ぎて急に慣れない道を走ることになったせいで、わたしを送った帰りに自損事故を起こしてしまった。これまでバイトの話になると首をかしげてきた両親が、ついに「多分あんた迷惑かけてるから、違うところでバイトしたら」と言ってきた。

 社長のことは大好きだったけど、最後までわたしが漢詩に興味を持つことは無く、はじめてのアルバイトは8か月で終わりを迎えた。ストーブの上で沸くやかんの蒸気で満ちた事務所を出たわたしは、最後のお給料1万5千円と、クエン酸の粉末2キロを抱え、雪の積もる道をひとりで歩いて帰った。
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