画人文人 よんじょう
南仏コートダジュール在住の日本人。藍の万年筆で描かれる独自の絵は不思議な魅力を放つ。個展で展示される100点ほどの絵はほぼ完売。アメブロのヨーロッパ部門で有名なブロガーでもある。
<南仏ネコ絵巻>ではフランスのネコにまつわるグッズやよもやま話をイラストとともに紹介します。
「フランス絵巻」
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目下、個展にむけて、画業に専念しておりますが、いままで興味の圏外だった古代エジプト画にハマっております。

歴史オンチなのに、何故ハマルのか?

パピルスや壁画に動物がたくさん出てくるから。
ってのも理由の1つ。

人間より動物が好きって人、多いですよね。
私もそのクチです。

『動物は裏切らない』っていうのもあろうけど、それは“後付け”の理由で、おそらく、もっと深いところからそうなっている気がするんよね。
紀元前850年頃、ワタシがエジプトで書記官をやっていた時代、毎日、ヒエログリフで動物を描いてたし、マリーアントワネットだった頃は、小鳥とお菓子だけが心を許せる友達だったわ。そして、楊貴妃だった頃には…。……もういい?

まァそんなわけで、動物がいつも身近にいて、人間よりもずっと心が通じる相手だったと想像するのであります。

さて、古代エジプトには動物崇拝がありました。

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猫は、紀元前2000年頃から、エジプトで家畜化(愛玩)されたのが最初らしい。そして、第二王朝期頃から、猫が神格化され,崇拝されるようになったといわれています。

“猫神“バステト(↑)は有名ですね。王様の守護者、人間を病気や悪霊から守護する女神で、豊穣、母性、性愛、多産のシンボルでもあります。

猫の性質からしても、猫が猫として扱われるより、神として扱われることのほうを『トーゼン(当然)』と思っていたでしょーけど、何がキッカケで、猫が、家畜から急に神に昇格したのか?という点に興味が湧きますニャ。
一説には、紀元前2000~1500年頃から、“魔法の短剣”といわれる刀に、猫が描かれ始め、この頃から、猫が崇拝の対象として扱われるようになったと考えられております。

この刀を持つと、他部族との戦争に勝てるというジンクスですかね。実際、勝率が高かったとみる。
それで、猫(のモチーフ)が“お守り”の役割を果たすようになったんでしょうね。

日本でも、ムカシから、招福と金運には“猫”(まねき猫)が登場しますけど、古今東西、“縁起担ぎ”に猫、が一役買っている点が共通してますニャ。

“まねき犬“でもいいようなものなのに?
犬がモテハヤサレるのは、”安産の犬帯”の時だけってのも、ある意味、イヌらしいヨ。

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仏人作家のネコ小説に、猫神バステトが登場するシーンがあります。
飼い猫の姿になって一般家庭に舞い降りたパステトがこんなことをいうんですわ。

『(自分=神である猫が)神通力を発揮するためには、相手が(も)神であり、(自分が)神の力をそなえていることを、人びとが信じてくれなければならない』。
『カブトムシやネズミやワニやウシの中にも、“聖なるもの“は存在する。それを本当に信じる人がいる限り、それは効力を発揮する』。

要するに、
お守りや、縁起物、まねき猫などが“効く”のも、受け手側の聖なる部分が感応している、という事でしょーネ。
高いエネルギーを持つものでも、そのエネルギー(波動)を受信する感性があってこそ、はじめて成立&成就する、ということになります。

ところで、
猫神バステトは、全知全能の神様、という感じではなく、状況によって、神にも悪魔にも変化(ヘンゲ)するところが、さすが猫ならでは、の神、なんです。

同じ1匹の猫が、ある時は癒しの恋人になり、ある時は慈悲深き母、そしてある時は、獰猛な破壊力をもつ化け猫(虎)になるのは飼い猫の日常にもみられる姿ですよね。

1人のニンゲンの中にも闇(魔)と光(神)があって、時と相手によって、自分の中から出てくるものが変わります。
24時間のうちでも、さっきまで光だったハズの自分に、ちょっとのことで魔がさして闇に占領される事があるし、そのほうが自然な姿だと思います。

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では、巷の女神が、バケ猫化するパターンを2つあげてみましょう。

まず、母性。
母性は大きくなりすぎるとバケ猫化します。コドモを愛するあまり、母子一体化してしまい、知らず知らずのうちに、子を丸呑みにしているパターン。
コドモは、それが愛から発していることを知っているだけに、母親を傷つけることもできず、母の手中でモガクことになります。

日本的な母性は、相手を“支配している”という感覚が、本人には無いのが特徴です。
日本のメオトも、夫に対して(愛はなくても)この母性のカタチが定着しています。このことは、私自身、日本を出るまでまったく気づかなかった事でもあります。

たとえば、妻が、夫の服や下着まで買っている(=妻が決めている)のが日本では“ふつう”だったりする。
“よく気の利く嫁”と、自他ともにいわれる人ほど、パパっと全部やっておられます。

私の知人で、夫が翌日着ていく服や靴下を枕元にすべて準備して、“私がいないと何もできない人だから”と言う女性がいます。
日本のアル年齢層においては、“デキタ嫁”ということになりますが、この嫁ハンのセリフを仏人にきかせたら、“旦那さん、カラダの具合が悪いの?”といわれます。

そして、“よくデキタ嫁”を、仏国に輸入すると、“支配的”と捉える仏男も少なくナイ。“そんな事まで、何もかんも嫁に決められたらカナワネーっ!”というわけです。

この系の嫁は賢いんで、夫のスケジュール、行動範囲もすべて把握しています。夫は、嫁によほど惚れてない限り、“落ち度はないけど息苦しい”のが本音になってきます。

日本の家は妻の城、冷蔵庫の中身まで妻の支配下にあります。出張の多い夫をもつ友人&ママ友の間では、夫が家にいる日は、内心『なんでいるの!』。
そのキモチはヨーワカルけど、夫のほうも妻が出かけて不在だと、つかのまの“えもいわれぬ”解放感を味わっているのです。

次に、
ネコと女は似ているとよくいわれます。女性は、とくに異性間において、ある時期には女神だった人が、バケ猫化するパターンがよくあります。

好きな人から愛が受けられなくなると、愛は怨念に変わります。

飼い主に見捨てられた猫が、新しい飼い主のもとで、何日間もゴハンを食べなくなる話は、小説にも現実にもある話ですけど、こういう執念は、ネコと女に顕著で、イヌと男にはあまりみられませんネ。

(この続きも書いてたんですけど、長くなったんで、来月号に続けまーす。たぶんニャ)

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