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ファミ熱!! ゲームの匠

ドット絵の匠・
インタビューシリーズ❼

ドットに込めたキャラクターのチカラ 少年ジャンプゲーム編

第1回:別々の会社にいた二人が共にゲームを作るようになるまで

※取材・文:とみさわ昭仁
※撮影:鈴木昭寿
※編集:山本直人(株式会社アンビット)
取材協力:株式会社トーセ、株式会社バンダイナムコエンターテインメント、
株式会社スクウェアエニックス、株式会社オーラシア 中里尚義さん&田中庸介さん写真 株式会社スクウェア・エニックス シニアゲームデザイナー
中里尚義さん(左)
株式会社バンダイナムコエンターテインメント CS事業戦略部
田中庸介さん(右)

■何もわからないままゲームの世界に入った

──今回取り上げるジャンプゲームは、当時、バンダイ(現在はバンダイナムコエンターテインメント)の下請けでゲーム制作をしていたトーセが開発していました。お二人とも、最初に就職されたのがトーセだったということでしょうか?

田中 わたしはトーセですね。学生時代は大阪に住んでいて、美術系の学校を出て就職するというときに、京都にあるトーセを選びました。ちょうどファミコンがブームになってきた頃ですね。美術系の学校を出ても、京都だとどうしても太秦映画村の美術セットだとか、あるいは着物関係とか、就職先の選択肢がそういう感じになってくるんですよ。その中で、トーセはゲーム開発をやっていて、ドットを使ってデザインするというのがおもしろそうだと思って選びました。

株式会社トーセ:京都に本社を置く家庭用ゲーム開発会社。バンダイナムコエンターテインメント、スクウェアエニックスをはじめ多くのゲームメーカーから作品の業務受託を行なっている。別名「業界の影武者」。

──それは何年頃のことですか?

田中 ぼくが19歳ですから……もう30年くらい前。1986〜87年ですかね。

──その頃だと、まだゲーム業界って就職先としてそれほどピンとこない時期ですよね。

田中 そうですね。京都だと任天堂さんがいちばんに挙がるところですが、それ以外ではほとんどなかったかもしれませんん。

──選択肢としてはそう多くはなかった。

田中 多くはなかったですね。ちょうどファミコンが世の中に出てきて、一般の方たちも気軽にゲームを遊べるようになって、わたしもゲームを楽しんでいるタイミングで就職することになったので、はい。

──ゲームが好きで、絵を描くことも特技にしていたから、自然とこちらの道へ、と。

田中 そういうことですね。

──その頃、ゲームのために絵を描く人のことは、社内でなんと呼ばれていましたか?

田中 普通に「デザイナー」ですかね。

──グラフィックデザイナー、ということですね。

田中 まだ「ドッター」っていう言い方は全然なくて、普通に「デザイナー」として来てくれと。でも、デザイナーといったら鉛筆や絵の具でイラストを描くイメージがあったので、入社してみて驚きました。

──だいたい何をするか、ゲームの絵を描くんということは、わかっていました?

田中 それはわかってましたけど、あくまでもユーザーとしてしかゲームを見たことがなかったので、まさかこういう形で仕事をするとは思っていなかったです。

──ゲームの作り方や、ドット絵の描き方なんて、それを教えてくれる学校もなければ、テキストさえもなかった時代ですもんね。

田中 ファミコンは出てきていたけど、それでもまだ主流はゲームセンターで、アミューズメントのほうを自分たちで遊ぶっていうのが普通でしたよね。

──そうか、ゲームは遊び場(アミューズメント)に行ってそこで遊ぶものであり、自分たちで作るものというイメージは希薄だったわけですね。

インタビュー風景
インタビュー風景。手元にあるのプリントアウトは当時の開発ツールの画面を出力したもの。今回特別にPC9801での起動を行なっていただいた。

■グラフィックデザイナーからゲームデザイナーへ

──中里さんはいかがですか?

中里 自分は、東京の美大を卒業して、D&Dというごく普通のデザイン事務所に就職しました。

──それはゲームとか関係なく、いわゆるデザイン会社?

中里 そうです。就職した事務所のクライアントのひとつにバンダイがあって、そこでバンダイさんの仕事をするようになりました。ぼくのときはまだファミコンが登場していなくて、任天堂さんだったら「ゲーム&ウォッチ」とかの頃です。だから当時の仕事はゲームのグラフィックとかではなくて、ほんとに純粋なデザイナーとしての仕事。

──ああ、外側の。商品パッケージのデザインとかですね。

中里 それから、おもちゃの企画会議なんかにも呼ばれるようになって、ブレーンとしていろんなアイディアを出したりしたのが最初のきっかけですね。

──バンダイは会社の規模が大きいですから、いくつも下請けのデザイン会社や企画会社がありましたね。わたしもそのうちの一社でゲーム制作のお手伝いをしたことがあります。

中里 その頃に、バンダイさんが「RX-78」というパソコンを発売します。そうしたら会社から「お前、シャープに行け」って言われて。

「RX-78 GUNDAM」
「RX-78 GUNDAM」。シャープ開発でBASICなどソフトウェアはハドソンが制作していた。(写真提供:BEEP@秋葉原)

──RX-78はシャープとの共同開発でしたね。ということは、RX-78用の何かをデザインすることになった?

中里 立ち上げのときに使うグラフィックを描くことになりました。それが初めてドット絵を描いた仕事ですね。

──そのグラフィックはどういうものでしたか?

中里 ええとね、タイトル画面とか、バンドルされてるグラフィックソフトで「こんなことが描けますよ?」というサンプル画像ですね。自分はエンゼルフィッシュかなんかの絵を描いたかな。当時はまだ他社のパソコンもPC-8801とかPC-9800の時代なんで、色数がほとんどない。それに比べてRX-78はかなり色数があったんで、けっこうカラフルなエンゼルフィッシュを描いた覚えがあります。

中里さんが描いたサンプルグラフィックのエンゼルフィッシュ
中里さんが描いたサンプルグラフィックのエンゼルフィッシュ。(当時のRX-78 コマーシャル映像より)

──まだ記録媒体がカセットテープかフロッピーディスクだった時代ですね。

中里 自分はセーブ、ロードの意味すら知らないで出向しましたよ。

──そこからゲームのグラフィックが仕事の中心になっていくわけですか?

中里 その中で作るゲームの企画を立てたり、さらに絵も描けるということでドット絵も描き、じゃあパッケージもデザインして、取扱説明書も作って、というのを全部やらされましたね。まあ最初はいい加減なもんですよ。

──このインタビューシリーズでも、ゲームの黎明期からお仕事をされてきた方々は「最初はなんでもやらされた。いろんな仕事をした」とおっしゃいます。

中里 あとはもうプログラマーとマン・ツー・マンで仕事をしてました。プログラマーが音も出せれば、仕事はその二人で完結してしまうんで。それで、こうしてこうしてああしてっていう感じで作っていった。

──そんなに明確に仕様書とかを作らないで仕事を進めていったんですね。

中里 ないない。誰も見る人いないし、チェックする人もいないし。

■『神龍の謎』の開発で二人が出会った

──中里さんは、どういった経緯でバンダイでのゲーム開発に参加するようになったのでしょう?

中里 これはジャンプゲームじゃないんですが、バンダイさんが『オバケのQ太郎』をファミコンソフトにするとき、開発をトーセさんが請け負って、そこにぼくも企画とデザインで入っていきました。

──それはトーセに移籍したわけではなく、D&Dからの出向で?

中里 トバされて(笑)。企画から関わったので、ほとんどトーセさんに行きっぱなしでしたね。そのプロジェクトのために一室空けて、ぼくのための機材も用意してくれれて、というのが始まりです。

──では、今回のインタビューの趣旨でもある、ジャンプゲームを最初に手掛けたのは?

中里 『オバQ』が終わったあとで、『ドラゴンボール 神龍の謎』ですね。本来、自分は担当ではなかったのですが、途中からそのチームに加わって。

田中 ぼくは新入社員として『ドラゴンボール 神龍の謎』の開発に加わりました。

──そこでトーセの新人だった田中さんと、D&Dから出向の中里さんが出会うわけですね。お二人の年齢差は、どれくらいなのでしょう?

田中 ぼくはいま50歳になったばっかりです。

中里 自分は58歳です。

田中 ぼくよりずっと先輩ですね。

──ということは、バンダイの仕事は中里さんのほうが先にやっていたということですね。

中里 そうなります。自分は橋本さん(※橋本名人)の、さらにその先輩の頃からバンダイさんと仕事をしていて、途中から新人として入社してきた橋本さんが仕事を引き継がれました。あの方が名人になった経緯も全部知ってるんですよ(笑)。

『ドラゴンボール 神龍の謎』タイトル画面
『ドラゴンボール 神龍の謎』ゲーム画面
『ドラゴンボール 神龍の謎』1986年11月27日発売。サイドビュー型のアクションゲーム。
(C)バードスタジオ/集英社・フジテレビ・東映アニメーション
(C)BANDAI NAMCO Entertainment Inc.

第2回へ続く

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