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ドット絵の匠・
インタビューシリーズ❻

『クインティ』そして『ジェリーボーイ』杉森 建 編

第1回:ゲームの同人集団「ゲームフリーク」に参加する

※取材・文:とみさわ昭仁
※撮影:鈴木昭寿
※編集:山本直人(株式会社アンビット)
取材協力:株式会社ゲームフリーク
杉森 建さん写真 株式会社ゲームフリーク 取締役 杉森建 さん

■同人誌ショップで手にした『ゲームフリーク』創刊号

──田尻社長(※田尻智。株式会社ゲームフリーク代表取締役であり、『ポケモン』の発案者でもある)と出会った頃のことを教えてください。

杉森 社長と出会ったのは高校在学中ですね。

──あら、杉森さんがマンガ家デビューした後かと思ってましたが、そんな前からでしたか。

杉森 サンデーの新人賞を受賞したときは、もう出会ってます。

──ということは、一人暮らしをはじめる前ですね。これまでに何度も話してることだとは思いますが、出会ったキッカケは新宿の「ふりーすぺーす」というところで。

杉森 そう。新宿3丁目と新宿御苑のあいだくらいに、ふりーすぺーすという同人誌専門店があって、そこで『ゲームフリーク』(※アマチュア時代に田尻社長が創刊したアーケードゲーム攻略同人誌)の創刊号を見つけました。

──社長自らイラストも描いていたという、伝説のミニコミですね。第一印象はどうでした? 「ヘタな絵やなあ」とか。

杉森 いやいやいや(笑)、とりあえず異彩を放ってたわけですよ。ゲームの同人誌なんて他にはない時代ですから。

──ナンダコレ? ってなりますよね。

杉森 表紙が『ディグダグ』のドット絵で、ゲームに詳しくない人が見てもピンとこないと思うんですけど、ぼくはやっぱりひと目で「ゲームの本だ!」ってことがわかったから。

──いくらでした?

杉森 300円だったか、250円だったか、そんなもんですね。創刊した頃のはコピーをホチキスで綴じた程度のものでしたから。

ゲームフリーク創刊号の表紙
同人誌『ゲームフリーク』創刊号の表紙。田尻氏の個人誌で、右下に「TAJI CORP.1983」のクレジットが入っている

──それで連絡をとって、スタッフとして参加した。

杉森 スタッフというか、社長の絵があまりにもヘタだったので、ぼくが描いて送りつけたんですよ(笑)。最初の頃の表紙は、社長がゲームのキャラクターをドット絵で描いていて、まあ、それは、いまならクールだと考えることもできるんですが。

──オシャレでね。

杉森 でも、ぼくは「こういうんじゃなくて、アニメ絵にしたほうが売れるぞ」ってアプローチをして、そっちに寄せていったわけです。

──まだドット絵がクールだなんてセンスが生まれる前ですもんね。時代的にはアニメ絵の方が訴求力がある。

杉森 だから、ぼくはドット絵を語る資格がない(笑)。

──わはは! それはでも、ゲームのことをよく知らない人にアピールするためですから。

杉森 良く言えばそうなんですが。

──ともかく、そこで『ゲームフリーク』をより多くの人に届けたい社長と、そこに参加して力を発揮したい杉森さんと、お互いに利害が一致する。

杉森 そういうことです。

──それからしばらくして、杉森さんは町田にアパートを借りるんですよね。高校を卒業して、新人賞も獲ったことだし、プロのマンガ家を目指すぞ、と。

■町田で借りた部屋がゲームフリークの溜まり場に

杉森 でも、マンガ家を目指そうとして一人暮らしをはじめたわけではないんですよ。高校卒業して、進学も就職もせずにプラプラしてたら親に怒られて、家を追い出されたの。

──それもまた考えてみたらすごい話ですね。収入のない息子なんだから、家に置いといてやればいいのに。

杉森 本人のためにならないと思ったんじゃないですか。

──ライオンが崖から……。

杉森 そうそう。梶原一騎イズムだったんですよ。

──そうか、そこにつながるのか(※注:お父様は『巨人の星』の愛読者でした)

杉森 マンガ家になるならなるで、ちゃんと編集部に新作を描いて持ち込むとかすればよかったんですけど、ぼくは怠け者なので、そういうことをまったくせずにゲーセンばかり行ってプラプラしてた。それを見かねた親が「そんな好き勝手したいなら、一人でやっていけ!」と言って放り出された。

──露頭に迷うじゃないですか!

杉森 そのとき頼りになったのが、新人賞の佳作入選でもらった賞金の10万円だったんですよ。

──そのお金でアパートが借りられた。家賃とかいくらでした?

杉森 いくらだったかなー。

──たとえ30年くらい前だとしても、敷金・礼金で10万なんてすぐなくなっちゃうでしょう?

杉森 なくなりますね。だから先にバイトを決めてから部屋を探したはず。あのアパートって、とみさわさん来られたことあります?

──その頃はわたしはまだ杉森さんと知り合ってないですね。

杉森 町田の駅から徒歩20分くらいで遠かったけど、部屋は広かったんですよ。2部屋くらいあって、たしか家賃は4万弱くらいだったんじゃないかな。

──その頃、社長は町田のご実家に住んでいましたよね。ということは、社長の家の近所に引っ越した、ということになるのかな。

杉森 そうですね。

──だとすると、当然のごとく杉森さんのアパートがたまり場になっていくでしょう? そこが事実上『ゲームフリーク』の編集部みたいになったりして。

杉森 なりましたね。いつも誰かしらが寝てたりしました。

──将来への不安はありませんでしたか?

杉森 ないですね。何も考えてない(笑)。その日たのしく暮らせりゃいいや、みたいな。

■町田時代の意外な同居人

──アルバイトはゲームセンターの店員だったそうですね。なんていう店だったか覚えてますか?

杉森 いちばん最初は「いこい」。タイトー系列だったので、他にも「今日からこっちの店に行ってくれ」みたいな感じで系列の店に行かされて。「いこい」の次が……「キャッスル」だったかな? あと「ポパイ」とか。

──ゲーセンでバイトをしてれば、タダでゲームができたり……?

杉森 あんまりそういうことはやらなかったですけど、でも、ほんとゲームが好きだったんで、筐体をピカピカに磨くとか、そういうことが嬉しかったんですよ。中もちゃんとメンテナンスして、このゲームをきれいな画面でちゃんと見せたいっていうか、ゲーム愛に任せてブラウン管をいつまでも磨いていて感電したり(笑)。

──ろくに調整もしてないゲーセンとかありましたもんね。

杉森 音が絞ってあってきこえないとか、画面が帯磁して真っ青になってたりとか、そういうことが嫌だったんですよ。「このゲームのサウンドは素晴らしいから、ちょっとボリュームを上げとこう」みたいな、ぼくはそういうことばかりやってましたね。

──しかし、バイトを終えて帰っても、誰かがいたりするわけですよね。自宅アパートがたまり場になってると、プライバシーがなくて困ったりしませんか?

杉森 いや、あの頃はとくにプライバシーというほどのものはなかったですから。べつに女の子と付き合ってるわけでもないし。

──後に、田尻社長が下北沢にゲームフリークの事務所を借りますよね。そこにはわたしもずいぶん入り浸ってました。

杉森 そんな感じで、いつも誰かがいるっていうのは、むしろ楽しかったんですよ。町田のアパート時代は山根くん(※注:山根ともお。『イース』や『天外魔境』などのドット絵を担当したグラフィックデザイナー)が一緒に住んでましたからね。

──えっ、本当? 彼も一緒だったの!?

杉森 そうですよ。知らなかった?

──町田時代のことは、ほとんど知らないんです。それは初耳だなあ。

杉森 先ほども言ったけど、町田のアパートはそこそこ広かったので、山根くんと二人で借りてたんですよ。

──いまで言うシェアハウスだ。

杉森 でも、途中で彼は日本ファルコムに就職することになって、アパートを出ていってしまったの。だから、ぼくが一人で家賃を払わなくちゃいけなくなって、ちょっと経済が破綻したんですよね(笑)。

第2回へ続く

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